センター現代文+受験小論文<ワードマーキング読解>攻略ゼミ 

主宰:富永文孝のプロフィール

身長172cm 体重67kg 牡羊座 A型 趣味はクラリネットと乗馬 音楽や美術の鑑賞       E-mail: master@kokugo.cc

 
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(このプロフィールに書いた内容以外で私が興味・関心をもっているものは、このサイトの「リンク集」ページに挙げた項目や、別ブログ「悠々として急げ」の記事によくあらわれている)
 
長崎県出身。九州大学法学部法律学科卒業。
 
高校までは人口一万二千人ほどの星のきれいな田舎町で育つ。
両親ともにそれぞれに商売を営む家庭に生まれ、忙しい両親のもと、一人っ子だったが放りっぱなしで育てられる。
 
保育園の給食と昼寝は苦手だった。母の店の都合でお迎えが時間オーバー気味の最後というのが常で、ニヒルさが身にしみこんだ。
 
幼稚園児の頃、母の編み物教室の生徒さんをつかまえては「教えなかったら編み機を壊すぞ〜」と言いながらそこらに置いてある本の中の漢字の読みや意味を片っ端から尋ねて覚えていったらしい。テレビも国会中継やらをじっと見ていて、大人がなぜ見てるのか尋ねると「あとでお父さんに中身を教えてやらなければいけないから」と答えていたそうだ。父に教えていたかどうかは不明。なぜか動物園のライオンの檻を越えて落ちそうになったことがあるそうだ(自分では記憶していないが)。唇のところに今でも消えない傷跡が残っている。連れていってくれた近所のおばちゃんは慌てたらしい。
 
小学生時代は優等生モード?で過ごす。典型的テレビっ子。ウルトラQ(とくに初回)とサンダーバード(とくに高速ジェット機の脚が出なくなったのを脚代わりの台車で着陸させる回は印象強烈)で育った。小1では西日本スケッチ大会で特賞だったかを受賞。水が多すぎてずぶずぶになった箇所をカバーするのにクレヨンを塗りたくった苦肉の策がテクニカルに見えたようだ。怪我の功名ということばを知る。父の好みで詩吟を習わされる。おじさんおばさんたちの中に子供が一人で可愛がられる。ボーイソプラノでこぶしも程よくまわり、県のコンクールで4位となり全国大会への切符も(学校があるからとお師匠さんが次の方を派遣し、父は悔しがる)。詩吟の大会が、吟詠を中心に、書や剣舞、芝居など総合パフォーマンスアートの場ということに感銘を受ける。パフォーマンスアート好きはこの頃からか。乗馬も父の好みから練習させられた(が、これはあまり上手くならなかった)。漫画も好きだった。田舎町に当時ナンバーワン人気の少年マガジンが一番早く着くのが国鉄の駅売店。月曜か火曜の夜8時すぎ。ランニングしてくるといって出かけ、ランニングシャツの腹の部分を膨らませて帰ってきていた。学校では巨人の星/大リーグボールの謎解きが第一の話題だったころだ。
 
日常的には店番をさせられることが多く、新聞や本を読む時間が多かった。小1の時、親が約束した時間になっても帰ってこず一人では店のシャッターを閉めることができず途方にくれて街灯の周りをぐるぐるまわりながら泣いた。が、それ以降なにがあっても泣かないふんぎりがついた。弱音もはかず泣きもしない、自己防衛本能が強まった。性格が少しひねた、か。小4でプレゼントされた「シートン動物記」は全巻むさぼるように繰り返し繰り返し読んだ。読書の喜びを知った。図書館で手当たりしだいに読む。図書の時間は背伸びしてギリシャ神話を読んでいたなぁ。小4の時に母が交通事故に遭い、以降3年ほど3つの病院で入院生活を送り離ればなれだった。小学校6年間というもの、給食が大の苦手で、学校には皆勤だけれど受けていない午後の授業は多い。一番の苦手はグリーンピース。豚の脂身とも格闘した。細かくは言えない。給食の献立作りも担当していた家庭科教師の伯母を悩ませた。給食室のおばちゃんたちは優しかった。今思えば、とんでもない問題生徒だ。ただ、自分の入学年度から中学でも給食が始まることになったのを知った時はほんとうに暗い気持ちになった。天国が地獄だ、というのが正直な気持ち。
 
中学時代はのんびり過ごす。給食は無理に食べなくても分けたり残したりしてよいシステムになったので楽にはなった。そういえば新聞の全面広告を見てイタリア・ラゴスティーナの圧力鍋を買おうか真剣に考えたことがあったっけ。料理に興味があるというよりも、モノとしてのスペックの高さ、あるいはモノとしての造形の美しさに目をひかれた、という感じだったか。ちょっと変なヤツだ。詩吟は変声期でやめてしまった。漢詩になじめたのは収穫でもあった。学校では体育祭の応援のしかけ作りの準備などに仲間と燃えた。家庭的には母の退院後、ほどなく両親は別居2年、その後離婚などということもあり明るい毎日とはいかなかったが。
 
高校時代は吹奏楽に明け暮れた。人の息の作り出すハーモニーに魅了され、先輩・仲間・後輩に恵まれたことも大きく、朝昼夜と音楽三昧。音楽室の鍵を朝一番に明け、顔は学校で洗うほど。個人練習のロングトーンは好きだった。一見単調な練習ながら音色がよくなっていき息のコントロールがうまくなっていくのが実感できた。傍から大変そうに見えても本人は楽しくて充実感たっぷり、ということがあることを実感する。三年間、吹き笑い語った、実に充実して楽しい高校生活だった。小・中と皆勤だった学校も、高校一年生の時に一日だけ休んだが、その日もこっそり部活には顔を出した。先輩の家の屋根裏部屋や先生のピアノの別宅など根城で夜通し語ることも多く、ぐれずに済んだ。感謝。
 
小学生のころから漠然と商売人になろうと考えていたこともあって、高三時の進路指導では経済学部か法学部と単純思考。大学は勧められるままに九州大学を受験することに決める。ただし、大学を志望する思いが薄いまま過ごす。勉強は、進学熱心に変化しつつあった学校の方針で補習や合宿などでみっちり鍛えられたが、しっかりとした目的をもたぬままの受け身の学習は、情報不足なども合わさって、今思えばもったいない自分の取り組み姿勢だった。
 
周囲からかけられる言葉とは裏腹に漠然とした不安を抱えたまま受験の地、九州の大都市・福岡へ。国立大学が一期校・二期校と分かれていた時代だ。一期校、九州大学経済学部はあえなく不合格。ややへこむ。気を取り直して意地の合格を目指した二期校、鹿児島大学は法文学部法律学科に合格。ほっとしたものの喜びは薄かった。自ら目的をもって継続して努力してこなかったことから達成感が薄かったからだろう。鹿児島大学も歴史のある素晴らしい大学だが、今後ずっと九州大学の名を耳にするたびに自分が合格できなかった大学だと思うのは嫌だと思うとともに、プレッシャーかかる中で目的に向かって継続努力という時期を一度経験してみたいという気持ちに駆られたこともあって浪人を決める。大切な四年間を過ごす土地として、福岡という街に魅力を感じたことも大きかった。九州を出たいという思いは微塵もなかったが、同じ九州ならば福岡に、と。親には感謝。福岡で予備校生活を送ることに。地元ではのんびり気分+高校に顔を出して音楽にふける→勉強しない、という高校の恩師の説得に親が深く納得したためらしかった。親元を離れ、望む福岡の地で過ごせることはラッキーとばかりに、一年勝負の予備校生活に夢を馳せて向かった。予備校は天神親不孝通りの一角。あの通りがてっしい村を軸に勢いを持ち始めたのが浪人生活の翌年だったのは大きい。ひとつずれていたらたぶん人生変わってた。屋根裏貘、素敵なママさんの画廊&喫茶店だ。
 
福岡・天神の街が新たに発展しはじめる時期だったこともあり、また、予備校も魅力的な講師の先生方や仲間が多かったことも手伝って、寮生活も含め思いがけず楽しく充実した浪人生活だった。一番演奏会を聴いたのもこの年だったが、寮の夜の学習時間は自分なりに決めた内容を規則正しく勉強に費やした。本番直前に一晩だけ、今度また失敗したらどうしよう、鹿児島大学にそのまま入っていればよかったか、と不安がよぎった。我も人間。翌年から新テスト(共通一次試験)に制度が切り替わることになっていたことも影響したか。
 
捲土重来。一年間の浪人生活を経て、九州大学法学部を受験。なんとか合格(たぶんぎりぎりに近い点数だったと思う)。危なかった。苦手で捨てていた世界史の地図がらみの問題が60点中の15点出された。青ざめた。地図と都市名とできごとや人物の3つ合致して1点。見た瞬間に血の気がひいたのは事実。
合格発表を大学まで見にいったが、掲示板に自分の受験番号を発見した時には弾ける喜びというよりも安堵感の方が先だった。
 
大学では吹奏楽団に入りながらも高校時代の熱心さは持たず、福岡の街を大いに味わうことにエネルギーを注いだ気がする。歩き、食べ、聴き、観、語る。(適度に都会で、ほんの少し離れると田舎らしさもたっぷり。交通の便もよく、ほどよいコンパクトさでいろいろなものが集積し、旨く楽しく便利で、つくづく福岡は過ごしやすい街だと感じる。福岡の街はオススメだ) さまざまな経験が今に生きている。
 
大学卒業間際に母が事故に遭う。母が佐世保で経営していた会社の舵取りのピンチヒッターとして、大学に籍を残しアパートも引き払わぬまま急遽取締役に就任し商売の日々。ビジネスの経験豊かな地元佐世保の親類をパートナーとして商売実務の鍛錬を受けながらハードな業務をこなし一年で業績を戻す。母のこともあり、睡眠時間3時間ほどでなんとか乗り切れた。一年後、残していた2単位を取得して大学を卒業。その後も状況の推移を見守りながら福岡と佐世保を行き来しつつ、仕事と自分なりの勉強を続ける生活を計3年半を過ごす。商売の経験豊富なパートナーからも免許皆伝?をもらう。
 
この間、ようやくパーソナルユースが始まったワープロや通信、そしてパソコンやビデオの可能性・将来性に着目して時間とエネルギーとお金を注ぎこむ。使った、使った。この新しい息吹の成長をリアルタイムに体感し活用してこれたのは貴重な経験だ。忙しさを改善するために、独学でBasicを学び、月例の集計表や商品在庫管理などのプログラムを組んだ。ワンボードマイコンから脱皮した8bitパソコン、テレビをモニタとして使用するタイプでカタカナとアルファベットのみ使用できるといった時代だった。ハードディスクはおろかフロッピーも一般的ではなかった。カセットテープにデータやプログラムをセーブしてたっけ。他に販売員さんたち向けの研修の講師をするための資料作りや、ビデオカメラでの撮影なども自分で。通信は電話カプラーの300bpsの時代から知っている。
 
会社の状態も安定したところを見計らって引き継ぎを済ませ会社業務から離れ、資格試験の準備に取り組むべく福岡に戻った1985年秋、市内のある塾の講師を大学の同級生のつてで急遽頼まれ、面接の翌日から授業。小・中学生向けの中堅の進学塾だったが、成長期に入る段階だったようで勢いがあり面白かった。
 
翌86年春からは講師仲間を通じて地元予備校や専門学校に依頼されるままに講師生活が本格化。生来の探求心を刺激され、教材の研究や指導法の工夫を重ね多くの受験生を指導する。現代文、古文、小論文を担当。全寮制予備校では夜間の個別指導も。
 
小さいころから得意だった国語だが、教える点に関しては、自分が(当時、感覚的に)解くままの捉え方を伝えるのでは授業として不十分であることを痛感。読めない生徒・解けない生徒が、読み解けるようになるための方法論を模索する。試験が実施される目的は何か、現代文という科目で問われる力は何か、評論とは、小説とは、本文のポイントは、設問・選択肢で問われていることは、正しさは、速さは、など徹底的に考え抜き、膨大な数の問題を解いて研究。実地指導を続ける中、3年ほどでメソッドとして体系化。指導手順もわがものとして小・中・高・予備校生・専門学校生を指導し好評を博した。
 
1999年度までで思うところあって講師業を終了。(指導分野でかなりの達成感を得られ新しい分野で自分の能力を試してみたい気持ちに駆られたことが直接の要因。友人のデザイナーからのたっての願いが誘因。当時DTPなどデジタルの波が押し寄せていたグラフィックデザイン業界に、アナログ仕事だけでは不十分ということで、デジタルに長けた私に白羽の矢をたてたということだった。間接的には、96,97年ごろから、前年までなら受からなかった学力レベルの生徒たちがどんどんと大学に合格する事例が各レベルで相次ぎ、試験の形骸化など違和感を感じたこと。受験指導の工夫や向上の必要性がなくなってきたと実感したこと、それに伴うその後の達成感や向上意欲の薄らぎの予感。教えるのは必ずしもプロの自分でなくとも十分ではないかという一種の諦観。向上意欲を向けられるものへの渇望〜他分野への転身の流れ)
 
2000年春からは、それまで1996年から助っ人として関わっていたDTPなどのコンピュータを使った一連の事業に専業として取り組む。96年夏にとったpop-iという独自ドメインは個人取得としてはかなり早い時期だった。印刷物+Web+映像Discメディアを融合した個人やグループ、零細企業レベルの情報発信サポート業を標榜して「伝えたいことを伝わるカタチに」という思いで活動。企画・デザイン・制作業。当初は地域状況からはやや取り組みが早すぎた感はあったものの、ようやく時代と地域性が追いついてきたか、ぼちぼちとマイペースの活動。思えば職業人生の前半がニットデザイナーだった母の血が関係していたか。商売と国語の研鑽もむろん直接に役立った。
 
ひょんなきっかけで地元の自営業者のおじさんたち(私自身も既にその一員だったが)のゆるやかなネットワーク体をつくることになり、事務局として本業の一方であれこれ動く。多士済々のメンバーの陰のまとめ役兼雑用係兼IT担当兼悩み聞き係兼各種プランニング担当。
 
そうこうする中、インターネット上の業務の関連で検索エンジンでリサーチをしていて、たまたま覗いた大学受験指導業界の動向が気にかかったのが2003年の秋。直接はセンター試験の国語の年度別平均得点の推移。相変わらずの低い点数どまりの状態に指導の改善の余地がいまだ残されていることを知り意外だったが、やる気をそそられた。ブロードバンド回線や高性能パソコンの普及の広がり、各種サービスやソフトの充実もあいまって、悩める受験生の役に立つことが個人ベースでもできるという可能性に意欲をかきたてられた。指導用の原稿を書き始め、書き進め、Webサイトの構築をし、メールマガジンの発刊準備も進め、教材のマーキングサンプルや音声ガイドづくりにエネルギーを注いだ。
 
2004年3月。インターネット上で<ワードマーキング読解>を披露。当初はメールマガジンを軸に、ブログができてからはブログ中心に、精力的に書いてきた。音声解説CD付きの読解スターターキットを発売。
 
加えて、2005年からは九州各地の高校に出向き小論文講演を行なう。プロジェクタ利用のプレゼンテーション形式あり、実作込みの集中講座形式あり、さまざまな要望に応じた動きを実現。現場の先生方のお役に立つべく奮闘する。
 
現代文も2007年からは<ワードマーキング読解>習得に最適な添削指導スタイルで活動をし現在に至る。
 
途中4年ほどのブランクをはさんで、通算指導歴17年目をひた走っている最中。ビジネスの実務経験をもって社会の一端の表裏を知り、各種デジタル機器やサービスに精通し、本はむろん音楽や美術を好み、何より教える喜びのためにエネルギーを注ぐのが好きだということでハッピーな毎日だ。2007年、法人化。高校時代の音楽仲間である書家・デザイナーのサイトの運営にも加わっている。コンサート向けの各種印刷物のデザイン・制作も好評をいただいている。Webサイトの構築やSEO対策にも通じる。他、コンサルティング業務も。使い始めて20年ほどになる歴代のMacintoshが仕事のよき相棒だ。
 
これからはストリーミングビデオやポッドキャスティングなども活用していきたいものだ。SkypeやiChatもより活用度を高めていこう。他にも最新技術を使ったプランがいくつもある。順次実現していきたい。

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