春01 2004.05.17 小説を読むと?

(元記事作成日:2004.05.17)
小説を読むと、心が豊かになるよ、といいます。
人生は一度きりなんだから、と妙に励まされたりけしかけ
られることも人生にはあるけれど、小説を読むと、読んだ
小説×n本の人生を追体験・疑似体験できます。(n=登場
人物などの数)しかも好きな場所にいながらにして。電車
の中でも、お風呂の中でも、トイレの中でも、ベッドの枕
元でも、そこが21世紀の日本だったり、中世のヨーロッパ
だったり、25世紀の宇宙だったりするわけです。映画やテ
レビのドラマでも味わえるというかもしれませんが、いや
いや、なんのなんの、小説を自分で読むということに勝る
ものはありません。(映画やテレビは時間の制約があるこ
ともさりながら、俳優さんの顔そして声が、自分のイメー
ジと違ってるなんてこともあるでしょう。時間の流れが違
うから、人生のふくらみや揺れ幅にも制限がかかるし、監
督の目がどうしても主でそれを鑑賞させてもらうみたいな
ところがあるけれど)自分で読むときは、そりゃ、自分が
監督兼プロデューサーみたいなものですから、しかも予算
の心配なし、邪魔な音楽なし、好きな音楽ありの状況で、
どれだけでもいれこみたい人物や事件に入れこんでふくら
ませて泣くも笑うも思うがまま。人生を何十倍も味わえる
究極の宝箱みたいなものですよ。神は細部に宿る、って。
それを期待しつつ、長年受験科目に入れられているんだろ
うけれど、皮肉にも試験では唯一の正解を客観的に得られ
なければならないという特性ゆえに、ある時は小さく、あ
る時は大きく、自由が制約されてしまう。でも、それはそ
れ、物は考えようで、より緻密な読みのトレーニングのチ
ャンスにしてもいいかも。そうそう、ワードマーキング読
解ね。マークを究めて、マークから出れば、強化された目
が、同じ評論や小説を一段と光り輝くものとして目の前に
提示してくれて、新たな知と情の世界が展開し味わえるこ
とでしょう。

春02 2004.05.21 記憶に残る生徒〜12月のある高三生

(元記事作成日:2004.05.21.Fri)
もう12月の声を間近に聞く頃だったけれど、予備校の講師
仲間から「姪が国語で悩んでいる。みてやってくれない
か」と相談があった。聞けば国語は好きで得意な方だが悩
んでいるという。そういうことなら、ととにかく日取りを
決めて会うことにした。本人の状態に即して指導すればい
い。
「で、悩みって?」「評論はいいんですけど、小説が問題
なんです。自分では読めたと実感して、確信をもって選択
肢を選ぶんですが、これが自信のあるものほど間違えてい
て。どうしたらいいのかわからなくなって……」 真剣な
眼差しできちっと正面を向いて答える表情に、こちらも思
わず背筋を伸ばす。
ありがちなことで珍しくはない。いわゆる味読力がある生
徒が陥る状況だ。精一杯イマジネーションを働かせて、登
場人物に自分を投影させて、入れこんで読む。なりきり読
みといってもよい。とくに共感度高い人物が登場した場合
は、試験とはいえ涙ぐむほどに入りこんで抜けられなくな
ってしまう。当然、客観的な読みとは対極の読みとなり、
正解からはかけ離れていきがちだ。それではいけないとも
がいても脱出口が見つからず、思い入れ読みの袋小路に入
り込んでいく。あるいはその苦しみから、正解に不満をや
不平をぶつけるようにさえなってしまう。この闇は深い。
こういうケースでもワードマーキングは当然有効だ。目だ
けで読む場合に、つい入り込んでしまう気持ちが、客観的
基準でマーキングするというある種の単純手作業をするこ
とで、変に入りこむことなく客観的なレベルの読みをキー
プできることになる。選択肢もその延長で見ることができ
るから、思い入れまでいかずにすんでしまう。あとは、間
違った読み癖からくる違和感がなくなるだけの量の練習題
を解いて修正できればよい。
悩みが深かった分、そして時期的にも切羽詰まっていた分、
理解の度合いが素晴らしかった。素直だったことも奏功し
た。午前十時に会って昼食をはさんで正味五時間の特別指
導で、みるみる変わっていった。あたかもしおれて枯れか
けていた花が水を得て美しく咲きはじめるような、あるい
は、さなぎが蝶に身を変えるような、おそらくは目からウ
ロコが落ちる経験だったことだろう。
帰り際には、脱出口にたどりついた安堵感をやわらかく身
にまとって、自信が芽生えた表情で軽やかに家路をたどる
後ろ姿が印象的だった。
小説だけとはいえ、長年の袋小路から、半日で抜け出すき
っかけをつかむという、習得最短の生徒だった。わらをも
つかむ思いで素直にぐんぐん吸収し、問いかけ、答えに納
得してさらに理解を進める姿は鬼気迫るものでもあり、途
中ではっきりした「気づき」を得たのか、急に表情も声も
明るくなったのが、見ていてこちらが驚かされるほどだっ
た。
求めるところ、道は開けるものだろう。歩き始めると、見
えてくる景色も変わり、心の持ちようも変わり、自分が変
わっていくことだろう。その過程で気づきの時をどれほど
持てるか、その数だけ成長するあなたがいる。少し苦しい
思いこそ、自分を磨いてくれる砥石のようなものといえる
だろう。磨かれて鋭さをもちうるようになる。切れ味鋭い
刃となって、難問もすっきりと切り倒してほしい。
変わる可能性は若い世代ほど大きい。角度を変えてみると、
その機会をもたらしてくれる触媒として、受験勉強という
ものもまんざら捨てたものではないといえそうだ。

春03 2004.05.23 設問で問われるのは、これだけのこと

(元記事作成日:2004.05.23.Sun)
現代文は、同じ本文に出会うことはめったになく、筆者も
テーマも多岐にわたる。
しかし、設問内容のバリエーションは他の科目に比べると
極端に少ない。
評論でいえば、結局は、指示語と接続語をからめた頻出の
中心語の説明問題ということになる。別の言い方をすれば、
重要段落の要点や全文の要旨の把握確認問題だといえる。
小説でいえば、とりもなおさず、登場人物の場面ごとの心
情(気持ちの変化)や、場面を通しての人物の性格の把握
確認である。
そう考えれば取り組みやすい科目といえることがわかるだ
ろう。もちろん、本文の該当する表現のバリエーションや
難易度の幅から、ことは単純ではなく、それ相応の対応力
をトレーニングで積む必要はあるし、その前提として対応
のルール(読解法)をマスターすべきであるわけだが。
あとはこれをいかに的確かつ迅速にマスターしトレーニン
グさせられるかということがポイントであり、そのための
方法論として何が教授できるかということであろう。わた
しの場合でいえば、そのための方法論が<ワードマーキン
グ>というわけだ。

春04 2004.05.30 言葉で伝えるべきこと 言葉では伝わらないこと

(元:2004.05.30)
言葉で伝えるべきものの代表格は主張。評論の範疇(は
んちゅう)である。
言葉で伝わらないことの代表格は思い。小説の領域であ
る。
主張は、説明、すなわち「分かりやすく言い換えてしま
うこと」が可能だ。いや、むしろそうすべきだ。分かっ
てくれない相手や分かりにくいテーマ・内容については、
説得のための青写真に基づき、手を変え品を変え、納得
させる素材を用意し、効果的に積み重ね組み合わせて構
成・展開する。断定可能ですっぱりと割り切れる表現が
ふさわしい。論理。
思いは<説明>不可能だ。言い換えれば言い換えるほど
核心から遠ざかる。いや、そもそも核心といえるほど確
たるものではない。移ろいやすくはかなくもあり、他方、
このうえなく長く持続する場合もあるが。軽やかに天駆
け上ることもあれば、深く重く闇の底に潜むものもある。
十人十色、百人百様人の数だけ性格があり、それ以上に
思いのバリエーションはある。ひとつの出来事、ひとつ
の発言をひきがねに、立場の数だけ、性格の数だけ、状
況の数だけ、思いは生まれる。喜怒哀楽のたった四文字
が包含する色の種類と濃淡の度合いの組み合わせは無限
だ。
それを表現する手段は多岐(たき)にわたる。音楽しか
り、彫刻しかり、絵画表現しかり、演劇しかり、舞踏し
かり、枚挙に暇がない(まいきょにいとまがない)。芸
術といえるもののすべてか。作り手たちの側から、聴衆・
観衆たちの心に響かせることで思いを訴えかける。
その中に小説がある。思いを伝える表現として、不利で
最も遠いところにある言語表現を用いて、なおも、描こ
う、感じさせようという営みである。言語を用いつつも、
説明的ではないように。分からせるのではなく、感受し
てもらうように。透徹した首尾一貫の論理ではなく、曖
昧模糊(あいまいもこ)として不可解で不可思議な存在
としての人間の内面を、直接・間接に描写することで、
読み手の心に響かせようとする。写生。
書き手には計算がある。読み手にそうと悟られないよう
に装いながら、したたかな感じさせるための計算が織り
込まれる。神は細部に宿る。
だから? そう、その本来の読み方は? 受験での読み
方は? その身につけ方は? 受験という切り口から見
えてくるものがいくつもある。これまでに、メールマガ
ジンやブログ、ホームページに書き表してきたことども。
これから実際の習得を始めるにあたっての、再確認の書
き込みである。